綾原大君 李莆の墓域

投稿日d 2015-04-01 ヒット数 465

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朝鮮後期の王族である綾原大君イボ(李莆/1592-1656)の墓。号は湛恩堂。朝鮮宣祖の息子。定遠君と仁獻王后具氏の第2子で仁祖の弟。諡号は貞孝。宣祖の王子は11才のときに義安郡の城に養子に出され、綾原君に命じられた。1631年(仁祖9年)に大君に昇進した。1636年に丙子胡亂に出会い、南漢山城での戦いで五衛都総府都総管として国難克服に力を注ぎ、斥和論を主張した。兵乱後、王子を人質に要求された際、自身が代わりに行くことを主張し、特に人質に同行する人々の家族を手厚く面倒みたことで名が高い。丙子年以降は一切朝廷に関わらなかった。全ての文書に明の年号を使い、清に対抗し節義と義理を守った。

和道邑の鹿村里にある宮末の稜線に、文化夫婦である柳氏と共に葬られている。墓の後方には塀が巡らされており、その中には8つの護石が置かれている。墓の前には月頭型の墓表が立っている。その前には長壺石が置かれ、床石や香炉石、望柱石、文人石、長明燈などにはきれいな彫刻が施されている。特に墓の前に立てられた童子石の彫刻はすばらしく、顔が長明燈の方を向いているのが特徴的である。神道碑は村の入り口に設置されており、位碑は1647年(仁祖25年)に內需司から王命を受けて立てられたもの。左議政ソン・シヨル(宋時烈)が立て、吏曹判書ジョ・サンウ(趙相愚)が文を書いた。このため、チェ・ソクジョン(崔錫鼎)が跋文を引き受けた。国により立てられたためにその規模は雄壮で、彫刻の手法は秀でて写実的である。

所在地: 和道邑 鹿村里 192

お車の場合
江北道路を直進。土平インターチェンジを過ぎると右側の漢江沿いにミウム船着き場が見えてくる。それを5分ほど過ぎると村に到着。
バス
清涼里駅前から30番、165番、166番の一般バス、もしくは330番、765番の座席バスに乗車。陶農洞で下車(30分ほど)し、10-1番のマウルバスに乗り換える。15分程度行くと村が見えてくる。陶農洞から一般タクシーに乗ると約3,000ウォン程度。

http://www.nyj.go.kr/japanese/culture/02_01_03_07.jsp