2014年はなぜ「京畿道600年」か
投稿日d 2014-03-03 ヒット数 375
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[統一韓国の中心、京畿道600年③] 京畿600年の意味と変遷
◇ 朝鮮時代、太宗は1414年1月18日に管制を見直して京畿を左右道に分けず、「京畿道」と呼ぶことにした。今年が京畿道600年に当たる所以だ。ⓒ京畿Gニュース
京畿道が水原華城行宮で16日午後1時30分から行う京畿道600年記念式に、道民の注目が集まっている。
特に、2014年甲午年がなぜ「京畿道600年」を記念する年になったか、気になっている道民は多い。それについて、道は「京畿」の語源的な意味と「なぜ1414年か」を説明した。
京畿の語源的な意味
「京畿」は「首都(京)」と「首都周辺地域(畿)」の組み合わせである。もともと「京」は天子の都を、「畿」は天子が直接管轄していた都城周辺の1千里の土地を意味した。京畿制が制度的に完備されたのは唐の時代で、韓国に本格的に導入されたのは高麗王朝時代だった。
首都の外郭地域を正式に「京畿」にしたのは1018年(顕宗9年)のときだ。これは成宗14年に施行された赤畿県制を改編したものだと、「高麗史」に記されている。「高麗史」の地理誌王京開城府条によると、1069年(文宗23年)に楊広道・交州道・西海道の39の州県が新たに編入され、既存の開城府とともに京畿制が拡大されたことを確認できる。
なぜ1414年か?
京畿制が中央から分離され、地方制度に定着したのは、高麗後期の「京畿左右道」の成立以来だった。高麗は1390年(恭譲王2)に京畿を左道と右道に分け、それぞれ道観察黜陟士を置いた。左道には安山・鉄原・利川などがあり、右道には開城・金浦などが含まれていた。
朝鮮は1402年(太宗2年)、京畿左右道を合わせて「京畿左右道省」とし、観察使と道使を置いた。1414年1月18日、太宗は管制変更と同時に京畿を左右道に分けず、「京畿道」と名づけた。
一部の「世宗実録地理志」の内容をもとに1413年を京畿道元年とみる向きもある。世宗実録地理志第148巻の「京畿」によると、1413年(太宗13年)、「左右道に分けず、ただ京畿道観察使と呼び、司を水原に置いた」とある。
だが、道は「世宗実録地理志」は一種の人文・地理書として、「完成時点が1454年(端宗2年)で、太宗の在任期間に記録された『太宗実録』よりも遅れることから、実録に記録された1414年を京畿道の始まりとみている」とした。
◇ 朝鮮時代、京畿道で漢江の南側の郡県は左道、北側の郡県は右道にした京畿道左右州郡総図。京畿道博物館所蔵(宝物第1596号)。ⓒ京畿Gニュース
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