大韓民国最大の王陵

投稿日d 2013-03-12 ヒット数 453

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大韓民国最大の王陵
(2013.03.03)

 
1926年4月25日、李氏朝鮮第27代目国王であり、朝鮮最後の王であった純宗皇帝が逝去したことで、長い間続いてきた朝鮮500年の歴史は幕を下ろした。しかし、李氏朝鮮の歴史は、我々の最も近くで今も生き続けている。朝鮮王陵は500年の朝鮮歴史が21世紀の我々に伝える現実的な歴史であり、物語である。京畿道九里市(クリシ)東九陵路(トングルンノ)197番地の東九陵もその一つである。
 
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世界文化遺産東九陵
世界遺産は、世界的にも保存価値の高い遺産を指すもので、我々には、この世界遺産を子孫に残していく義務がある。九里市の東九陵は、韓国の誇り高い世界遺産の一つで、従って我々は、この東九陵を大事に守り、子孫にそのまま伝えていかなければならない。そのためにはまず、我々が東九陵についてよく知り、我々の手で東九陵を守っていく必要がある。
 
-東九陵とは?
東側にある九つの陵という意味の東九陵は、韓国で最も大きい王陵群だ。李氏朝鮮第1代国王太祖の王陵「健元陵(クォノンヌン)」、第5代国王文宗と顕徳王后の王陵「顕陵(ヒョンヌン)」、第14代国王宣祖と懿仁王后、継妃(王の後妻である妃)仁穆王后の王陵「穆陵(モクヌン)」、第18代国王顕宗と明聖皇后の王陵「崇陵(スンヌン)」、第16代国王仁祖と継妃荘烈王后の王陵「徽陵(フィヌン)」、第20代国王景宗と端懿王后の王陵「恵陵(ヘヌン)」など、合計6ヶ所の王陵があったころは、東五陵と呼ばれていた。6つなのに5陵と呼んだのは、偶数を使用しない慣例のためだった。
 
その後、第21代英祖と継妃貞純皇后の王陵「元陵(ウォンヌン)」、第24代国王憲宗と孝顕皇后、継妃孝定王后の王陵「景陵(キョンヌン)」、追尊文祖と神定皇后の王陵「綏陵(スヌン)」が新たに加えられ、現在の東九陵になった。今回はその中から、李氏朝鮮を建国した太祖・李成桂(イ・ソンゲ)の「健元陵」についてご紹介しよう。

東北面の虎、朝鮮の龍になる
高麗(こうらい)の優秀な武将であった太祖(1335~1408)李成桂は、禑王の命により、明の国を攻撃しに討伐軍を率いて出兵するが、李成桂はもともと4大不可論を提唱しており、出兵に反対していた。4大不可論の内容は次のとおり。

第一に、小さな国が大きな国を打ち落とすことはできない。第二に、夏は、農作業が一番忙しいときなので、兵力が集まらない。第三に、首都を空けた場合、日本軍が攻め込んでくる可能性がある。第四に、夏は弓のにかわ(接着剤)が錆び、使えない上に、兵士が病気になりやすい。
 
結局、李成桂は、鴨緑江(アムノッカン)下流の威化島(ウィファド)で回軍(軍隊を率いて引き返すこと)を断行するが、これを「威化島回軍(1388年)」と呼ぶ。李成桂は高麗に帰り、禑王(高麗第32代国王)を廃位させ、昌王(高麗第33代国王)に続き、恭讓王(高麗最後の王)を立て、1392年7月17日、57歳の年にして、ついに、開京(ケギョン、現在の開城市にあたる)で王位につき、新しい時代を開いた。東北面の虎が朝鮮の龍になる瞬間だった。

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第1代国王、太祖「健元陵」
健元陵は朝鮮を建国した太祖・李成桂の陵である。李成桂は7年間王位につき、朝鮮王朝の基盤づくりに努めた。健元陵は東九陵の中央にあるやや奥まった場所にあり、封墳(土を盛り上げて作った墓)がススキで覆われているのが特徴だ。故郷をよく懐かしんだ太祖は、自分を故郷の咸興(ハムフン)に埋葬してほしいという遺言を残した。しかし、太宗・李芳遠(イ・バンウォン)は、咸興から運んできた土とススキでお墓を作ることにより、父親の遺言を果たした。祭礼などの関係上、漢陽(ハニャン)から遠い場所に建国の始祖を葬ることはできないという理由からだった。

本来、太祖が本当に埋葬してほしいと思っていた場所は、2番目の婦人である神徳皇后の隣であった。しかし、神懿皇后の息子であった太祖・李芳遠は、後妻の神徳皇后を非常に嫌った。このような理由から、太宗が太祖の願いを聞き入れないことは明白であり、この事実を知った李成桂も、それならば自分を故郷に埋葬してほしいと言ったのである。実際に太祖が逝去した後、太宗は、都城の中に置かれていた神徳皇后の陵を掘り起こし、貞陵に移した。そして、このとき掘り起こされた屏風石は、広川橋(クァンチョンギョ)の堤防工事の際に、逆さまにして使われた。もし、太祖・李成桂がこの様子を見たとしたら、どんな気持ちだっただろう。
 
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次の一問一答は歴史ガイドのファン・ジニョン氏と本人の対話内容を記したもの。
 
Q:健元陵が他の陵に比べて大きいのはなぜですか?
A:李氏朝鮮を建国した方ですから、陵が大きいのは当たり前ですね。また、太祖・李成桂の大きな権力を象徴するため、他の陵に比べて大きく立派に造られたといいます。
 
Q:去年の5月に「東九陵文化祭御駕行列」が行なわれましたが、今年も開催されますか?
A:はい、今年も来年も、毎年行なわれます。
 
東九陵文化祭御駕行列とは?
朝鮮を建国した太祖・李成桂をはじめ、9陵17位の陵が置かれている東九陵の歴史的価値を振り返り、文化遺産としての東九陵を広く知ってもらおうと、九里市が主催となり毎年5月~6月中に開催している文化祭。東九陵に葬られた王の性は全て全州李氏で、2003年までは「全州李氏大同宗約院」の主管で「健元陵親享忌辰祭」が行なわれてきたものを、2004年から九里市が市の文化祭に指定、市民の祝祭として大々的に行うようにした。
 
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健元陵の丁字閣
九里東九陵にある健元陵の丁字閣(チョンジャガク)は、太宗8年に健元陵と共に建設されたもので、その後何度か修理が行なわれた記録が残っている。健元陵の丁字閣は、朝鮮を建国した太祖を祀るという象徴性を兼ねながら、『国朝五礼儀』(吉礼)にある壇廟図説に照らし合わせると、建設当時の基本的な造りをそのまま残しており、朝鮮の王陵建造制度においての丁字閣の標準となる建築物として歴史的価値あるものとされている。
 
王陵は、単純に亡くなった人を祀っただけの場所ではない。王陵は、歴史そのものである。眠っているけれど眠っていない歴史、それが朝鮮王陵だ。ぜひ、家族や友だちと一緒に、韓国の歴史を間近で観察できる東九陵に立寄ってみてほしい。

文:クムナム記者団 ソ・ミンホ記者