驪州、歴史と文化が色濃く残る街

投稿日d 2013-02-22 ヒット数 473

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驪州、歴史と文化が色濃く残る街

生命と環境、歴史の街
京畿東部
 
京畿道東南部に位置する驪州郡(ヨジュグン)は、王様に進呈したお米や陶磁器、チャメ(マクワウリ)で有名な街。東側には江原道の原州(ウォンジュ)が、西側には利川(イチョン)と広州(クァンジュ)が、南側には忠北(チュンブク)の陰城郡(ウムソングン)と忠州(チュンジュ)市が、北側には楊平郡(ヤンピョングン)が隣接している。南漢江の大きな川が驪州郡の中央を南東から北西へと流れている。太白(テベク)山脈、車嶺(チャリョン)山脈、広州(クァンジュ)山脈の3つの山脈に囲まれており、驪州平野が漢江を挟んで広がっている。国宝や宝物、文化財や史跡が随所に残る歴史と文化の香る街だ。
 
ハングルの制定を行なった「世宗大王」と悲運の后妃「明成皇后」

「聖君」または「大王」の呼称が付く世宗(セジョン)は、李舜臣(イ・スンシン)に並ぶ韓国歴史で最も名声のある人物だ。世宗は、韓国の歴史上、最も優れた儒教政治と民族文化を花咲かせ、国民のための多くの政策に取り組んだ。訓民正音(フンミンチョンウム)制定も、こうした民を想う思想から始まったという。

世宗大王陵は、朝鮮時代最初の合葬陵である。1446年(世宗28年)に昭憲(ソホン)皇后が昇華した際、世宗は、当時の広州獻陵(ホンヌン)西側に双室の陵を建設した。右側の石室は世宗のために予め造っておいたもので、世宗が昇華した後ここに合葬し、その後1469年(睿宗1年)にここ驪州に移された。この陵の石物は、王陵を囲む石の欄干で、霊杵(ヨンジョ)や霊鐸(ヨンタク)、芝草模様を排除し、雲の模様や十二支神像のみを彫刻することで、朝鮮王陵の欄干石の基本を制定した。また、魂遊石を支える太鼓の形をした石物である鼓石を従来の5個から4個に減らした。

驪州には自主外交を行なった悲運の后妃である明成(ミョンソン)皇后の生家がある。明成皇后は李氏朝鮮第26代国王高宗(コジョン)の皇后で、開花期に優れた外交力を発揮し、開国と改革を推進する中、乙未事変の際に日本人に殺害され、波乱万丈な人生を終えることとなった。
 
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◇ 世宗大王は、韓国の歴史上、最も尊敬される人物に数えられている。驪州にある世宗大王陵は朝鮮時代最初の合葬陵だ。ⓒ G-LIFE編集部
 
明成皇后の生家は彼女が生まれてから8歳までの幼児期に住んでいた家だ。1687年、肅宗の義父である閔維重(ミン・ユジュン)の家として建てられたものであったが、ここには、明成皇后の勉強部屋であった場所に「明成皇后誕降旧里」と刻まれた石碑が置かれている。生家の前に建設された記念館には各種資料や遺品などが展示されている。また、明成皇后が滞在していた感古堂(カムゴダン)を復元し、一般公開している。

神勒寺(シンヌクサ)も驪州の歴史的な遺跡として有名な場所である。驪州郡を流れる漢江は「驪江(ヨガン)」と呼ばれているが、神勒寺はこの驪江がゆっくりと流れる鳳尾山(ポンミサン)の南方の麓に位置する美しいお寺だ。神勒という名前は、不思議な弥勒が手綱で人々に嫌がらせをする龍馬をこらしめたという伝説に由来する。神勒寺は高麗禑王2年(1376年)に懶翁(ナオン)禅師が入籍したことで有名になり、朝鮮時代には英陵(ヨンヌン)の願刹(亡者の冥福を祈るため建設されたお寺)に指定され、再度増築の機会が与えられた。現在、神勒寺の境内には、宝物に指定された多層石造塔、多層伝塔、普済尊者石鐘、普済尊者石鐘碑、大蔵閣記碑、普済尊者石などの祖師堂があり、京畿道有形文化財に指定されている極楽宝殿や八角円堂形石造浮屠などが保存されている。
 
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◇ 全国で最も美しい洑とされる梨浦洑の夜景。周辺には生態系湿地や迷路園、野生草花園などの観光スポットが隣接する。ⓒ G-LIFE
 
南漢江の3つの洑、梨浦洑・驪州洑・康川洑

驪州には全国の洑(ポ、小型ダム)の中でも特に美しい洑とされる梨浦洑(イポボ)と世宗大王の霊魂が宿る驪州洑(ヨジュボ)、帆掛け船をモチーフにした康川洑(カンチョンボ)がある。梨浦洑周辺には水中広場、文化広場、生態系湿地、迷路公園、芝生公園、野生草花園などがあり、驪州洑周辺には荻の群落地や展望タワー、世宗広場、世宗公園などがある。康川洑といえば康川島が広く知られているが、この島の中にはテーマ森林コース、芝生公園など、観光客がゆっくりくつろげる空間が整備されている。

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◇ 驪州の史跡の中でも特に有名な神勒寺。境内には様々な宝物や京畿道有形文化財が保存されている。ⓒ G-LIFE

韓国の生態系公園のうち最も大きい金銀砂江辺公園もエコ観光地として人気を呼んでいる。野生草花園をはじめ、カプトリとカプスニ公園、水辺観察デッキ、野外広場などが整備されており、特に、展示模型公園は時代別に1/20に縮小された甕棺墓(かめかんぼ)や安鶴宮(アンハックン)、将軍塚などの多数の名勝古跡が展示されており、学生たちの学習空間として脚光を浴びている。
 
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◇ 自主外交を行なったことで有名な后妃、明成皇后。驪州には明成皇后像と彼女の生家、資料や遺品などが展示された記念館がある。ⓒ G-LIFE
 
希望溢れる都・農複合都市への昇格推進が本格化

現在驪州郡は、都・農複合都市への昇格推進に力を入れている。驪州は朝鮮時代から全国に20ヶ所ある牧(まき)の一つとして、京畿東南部圏の中心的役割を果たしてきた。しかし、自然保全圏域、上水源保護区域などの各種規制により、開発が制限され、道内31の自治体のうち、未だ郡に留まる4つの自治体のうちの一つとして残っている。驪州郡が市へ昇格できる法的要件は既に充足された状況にあり、4大河事業、城南(ソンナム)~驪州複線電鉄などの発展に必要なインフラが整備されながら右肩上がりの成長を遂げている。驪州郡は、過去驪州牧としての栄光を取り戻し、南漢江による新しい変化と希望を胸に、さらなる飛躍を目指している。

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