水原、歴史の街から最先端技術の街へ
投稿日d 2013-01-23 ヒット数 415
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水原、歴史の街から最先端技術の街へ
大韓民国新成長動力のエネルギー源泉
京畿南部
京畿道の首府である水原(スウォン)は、李氏朝鮮第22代目国王の正祖が父親の荘献世子(思悼世子)への孝心と壮大な改革への夢を実現するために建てた計画都市だ。朝鮮時代の最期に建てられた華城(ファソン)は1997年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。水原は京畿道庁がある京畿道の中心部であり、サムスン電子をはじめとする国内外の大手メーカーの生産-研究施設が立ち並ぶ経済都市として、行政・経済の両面の機能を兼ね備えている。
◇ 釈迦の誕生日を記念して開かれた燃燈祭で奉祝行列が八達門を通過している。ⓒ 各市郡
正祖大王が造った計画都市
水原市内の中心部にそびえ立つ八達山(パルタルサン)を中心に5.7㎞にかけて広がっている華城は、史跡第3号に指定されており、長さ5.743㎞、面積1,3㎢、東側の地形は平地をなし、西側は八達山を跨がる形となっている。華城は全部で51の施設で一郭をなしているが、現在は45個の施設が残っており、6つの施設が未だ復元されていない状態にある。華城は城門や楼台などの建築様式が東洋城郭の雄大さと西洋城の美しさと実用性を兼ね備えているとして高く評価されている。また、当時の火器に対する攻撃や防御に対応する施設を完備しているなど、韓国で最も科学的な設計で築城されたとして有名だ。
西将台(ソジャンデ)は京畿道庁横の八達山に位置している。西将台は八達山の頂上に位置する指揮本部として、四方を見渡しながら戦闘や軍事訓練を総指揮していた場所だ。正面3部屋、側面3部屋の2階建ての楼閣で、観光客のための駐車場が完備されている。西将台から城郭に沿って北側へ行くと、宝物第403号の華西門(ファソムン)と宝物第1710号の西北空心敦(ソブクコンシムドン)が現われる。西将台からは華城行宮や遠くに見える長安門(チャンアンムン)、八達門(パルタルムン)が一望でき、天気のいい日には多くの観光客がこの西将台に登り、絶好の眺めを楽しんでいる。
華西門から城郭に沿って続く長安公園を過ぎると、華城の北門である長安門が現われる。門楼の高さがそれぞれ13.1m、11.4mの長安門は城の中央に聳え、南門である八達門と向かい合っている。1950年に起こった韓国戦争の際に門楼が破壊されたものを1976年に復元した。
ここから5分の場所には、北側の守門である華虹門(ファフォンムン)がある。華虹門は楼閣の形をした守門だ。華虹門と北暗門(プガンムン)の間にある宝物第1709号の訪花隨柳亭(パンファスリュジョン)は城の東側と北側を繋ぐ要所で、城の外にいる敵の動きを監視し、非常事態には指揮システムが置かれたりもしたという。
亀の甲羅のような形をしたコブク岩の上に建つ訪花隨柳亭は軍事施設であるにも関わらず、周辺の景観が非常に美しいことで有名だ。訪花隨柳亭の中央にはあずまやがあり、下には龍淵(ヨンヨン)と呼ばれる蓮池がある。訪花隨柳亭の照明と夜空に浮かぶ月、蓮池に映る幻想的な星空は龍淵霽月(ヨンヨンチェウォル)と呼ばれ、水原華城最高の夜景に数えられている。
◇ 華城の東門、蒼龍門とその壁画。韓国戦争でひどく破損した蒼龍門は1976年に復元工事が行なわれた。ⓒ 各市郡
城郭全体が一つの芸術作品
華虹門を過ぎると、当時、兵士らが弓を射、武芸を磨いたとされる錬武台(ヨンムデ)が現われる。正祖大王がここで実際に弓を射ったこともあったといい、現在は、観光客の国弓体験場として活用されている。また、「華城列車」が通っており、子どもたちや体の不自由な人たちも八達山まで楽に登ることができる。続いて華城の東門である蒼龍門(チャンリョンムン)がお目見えする。蒼龍門は韓国戦争の際に門楼が焼失し、門の枠であるアーチ型の骨組みが破損するなど、大きく壊れたが、1976年に昔の姿へと復元された。城郭に沿って歩いていくと、東南角楼で城郭が途切れ、伝統市場の池洞(チドン)市場が顔を覗かせる。東南角楼と八達門の間は韓国戦争の際に破壊されたが、90年ぶりに本来の姿へと復元された。伝統市場を出ると、道路の真ん中にそびえ立つ華城の南門、八達門が現われる。宝物第402号のこの八達門は、長安門と同様に2階建ての楼閣からなっており、前方には門楼を守るための甕城が建てられている。
正祖の孝心がそのまま伝わる臨時宮殿「華城行宮」
華城といったら絶対に外せないのが「華城行宮」だ。華城行宮は平常時には華城有司が滞在し、職務を司り、正祖が顕隆園(ヒョンリュンウォン)に立寄った際には、国王が滞在する臨時の宮殿として使われた。1789年の地方役所の移転後、1790年から本格的な官庁の姿を備えはじめ、1795年、乙卯年遠行を準備しながら増・改築を行ない、576部屋からなる、朝鮮時代最大の行宮へと発展していった。
しかし、日本統治下において、日帝の民俗精気抹殺政策により、新豊小学校内にある洛南軒(ナクナムホン)だけが残されたままお城は全て破壊された。その後、奉壽堂(ポンスダン)があった場所には慈惠(チャヘ)医院(現在の京畿道立水原病院)が、北軍営には警察署などが置かれるようになり、行宮は本来の姿を失っていった。唯一、日本統治時代に水原郡庁として使われた洛南軒だけが残されている状態だった。これに水原市民たちが立ち上がり、華城築城200周年を迎える1996年から復元工事を開始、京畿道立水原病院や警察署を移し、482部屋の復元に成功、2003年から一般公開されるようになった。
世界がうらやむ韓国の味「水原カルビ」
水原といえば欠かせないのが「水原カルビ」だ。カルビは最も韓国的な食べ物でありながら、世界中で愛されている韓国の代表的な食べ物だ。水原カルビは焼きカルビの発祥地で1950年代から現在に至るまで水原の代表的な食べ物として人気を集めてきた。韓牛に天然の調味料を加え、炭火でじっくり焼き上げた水原カルビは、まろやかな味が特徴。水原で最初のカルビ料理店は1940年、華城の外、現在の栄洞(ヨンドン)市場の一角に開店した「ミジョノク」である。ミジョノクから出発した故・李貴成(イ・グィソン)氏の「華春屋(ファチュノク)」は水原市民や全国のグルメウォーカーらに焼きカルビの名所として人気を集めた。
華春屋は元々酔い覚ましスープを売っていた店で、1956年に初めて味付けカルビを売り始めたという。王族や貴族らが食べていたように、長さ7㎝以上の骨に付いたボリュームたっぷりのお肉に、とうがらし、葱、ニンニク、コショウ、梨、ゴマ油などの40種類以上のタレをつけ、塩で味付けしたものを炭火でじっくり焼き上げたもの。水原カルビは1950年代初め、当時の首都警察庁長であった張澤相(チャン・テクサン)が毎日のように始興から馬に乗ってわざわざ水原を訪れ、このカルビを食べたことから次第に広く知られるようになった。1979年、元々華春屋のあった場所にデパートが建設され、ついに華春屋の歴史は幕を下ろすこととなったが、現在、水原では100ヶ所以上のカルビ専門店が盛業中にある。
◇ 水原カルビ ⓒ 各市郡
http://gnews.gg.go.kr/news/news_detail.asp?number=201207261858207055C059&s_code=C059
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