ラビベルのGGi Upデートコース(11) - 龍仁ナム・ジュン・パイク・アートセンター
投稿日d 2012-01-31 ヒット数 403
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ラビベルのGGi Upデートコース(11) - 龍仁ナム・ジュン・パイク・アートセンター
(2012.01.18)
皆さんはナム・ジュン・パイク(白南準、ぺク・ナムジュン)をご存じですか?2006年1月、アメリカで亡くなった世界的な芸術家、パイク。20世紀が生んだ世界的な芸術家100人に選ばれた韓国出身の芸術家、パイクは、現代美術の未開地とも言える韓国の美術レベルを一段階アップさせた現代芸術の巨匠です。皆さんはそんなパイクをご存じですか?
私にもナム・ジュン・パイク芸術に関するいくつかの思い出があります。1984年、パイクの画期的な実験作品として高く評価されている「グッドモーニング、ミスター・オーウェル」を取り上げたテレビ番組を、幼い頃見たのを覚えています。もちろん、芸術的な価値とか「ミスター・オーウェル」が誰であるかも分からなかった子供の頃ではありますが、モニターに映し出された不思議で一風変った形象は今もなおうっすらと記憶に残っています。
そして、高校の時に行った果川(クァチョン)現代美術館で中央ホール高くに設置されたパイクの作品「多多益善」を不思議そうに眺めていた記憶も脳裏にくっきりと残っています。私は、その記憶から、偉大なる「ビデオアートの先駆者」パイクをはっきりと記憶にインプットし、多くの人たちもまた、この作品を彼の代表的な作品として記憶していることでしょう。大学の頃、教養科目でパイクの芸術世界に接する機会があったのですが、未だに私は、「ビデオアート」や「前衛芸術(アバンギャルド、avant-garde)」を深く理解することができません。それだけ、彼の作品は数十年が過ぎた今でも大衆性とは掛け離れていると言えるでしょう。
「ナム・ジュン・パイク・アートセンター(NJP Art Center)」は2008年10月にオープンしました。私は何回かここを訪れたことがありますが、実際に私は芸術家でもなく、現代美術に造詣が深いわけでもありません。けれどもナム・ジュン・パイク・アートセンターを見学しながら彼が夢み、指向した芸術の世界について少なからず理解することができたような気がします。我々が当たり前のように思っている実験的芸術、芸術技法、ビデオ技術などは数十年前、パイクと彼の芸術仲間らがいなかったら今は存在しないものであったかも知れません。
パイクは世界的な巨匠でしたが、彼の生れながらの環境や彼を取り巻く様々な環境のせいで、韓国ではあまり歓迎されませんでした。彼がアメリカで生を終えた時も韓国のメディアや一般世論の反応は、彼の名声に相応するものではなかった気がします。しかし彼は、自分の身体の一部を韓国に残しました。そして彼が芸術活動の舞台として好んだ龍仁(ヨンイン)に彼を記念する美術館が建設されました。
ナム・ジュン・パイク・アートセンターにはパイクの作品だけでなく、彼の芸術仲間の作品も展示されています。また、彼がドイツやアメリカなどで活躍していた当時の記録や作品に関する背景説明も添えられています。最近では、彼の芸術に影響を受けた韓国や外国の作家らの作品も見ることができます。多くの外国人観光客や滞在者らが彼の芸術の世界に触れるため、ここを訪れ、国内外の芸術家らの作品活動も行われています。
最近では、ナム・ジュン・パイク・アートセンターライブラリーが設けられ、ユニークな構造や空間を完備した素敵な図書館に立ち寄ることもできます。少し時間を出せば、さほど遠くない場所にあるので、気軽に訪れられるでしょう。この冬、「ナム・ジュン・パイク・アートセンター」で彼の作品を鑑賞してみるのはいかがでしょう。温かくぬくもりのある室内アートセンターで愛する家族や恋人と楽しいひとときをお過ごしください。
ナム・ジュン・パイクの芸術世界と生涯(情報提供:ウィキぺディア
ビデオアートの創始者として今世紀最高の実験的芸術家の一人に数えられている。彼は、批評家から彫刻家、パフォーマンスアートやビデオアートの開拓者など、様々な呼称で呼ばれている。また、彼のことを「空想世界の旅人」と呼ぶ人もいる。しかし、ほとんどの批評家らはパイクのことを1960年代初期以降、ポストモダニズム系列の芸術家の中で最も挑発的で革新的な人物として評価している。
彼は早くから日本に渡り住み、東京大学で芸術史や音楽史を勉強した後、西ドイツ(現ドイツ)に移住、1956年~58年まで、ミュンヘン大学で音楽史を勉強した。1950年代後半、ケルンの電子音楽スタジオに勤務していた頃、パイクはアメリカのパフォーマンスアーティスト、ジョン・ケージに出会い、彼のクリエイティブな作曲と非正統的な思考から大きな影響を受けることとなる。
作家としてデビューした際、彼は自分の専攻を活かして主に作曲やパフォーマンスなどのネオダダイズム的運動を繰り広げた。また、ヨーゼフ・ボイスと共にパフォーマンスアート運動グループのフルクサスの一員としても活躍した。「コラージュ技法が絵具の代用品となるようにブラウン管がキャンバスの代用品となる」と公言した彼は、ビデオの幅広い可能性を発見し、純粋な電子音楽作曲から視覚美術へと転向していった。
1965年、ニューヨークでジョニー・カーソンショーを録画したビデオテープを電気針金を使って消していくビデオテープ設置作業を披露した。彼は、視聴者を受動的にさせる技術を解体し、再構成させ自分の芸術的想像力と意思で文化的環境に影響を与える方法を探求することに努めた。特にクラシックチェリストのシャーロット・モーマンのために制作された何編かのビデオパフォーマンスは挑発的な行為のため、社会的に大きく取りざたされたりもした。
1967年、ニューヨークで制作された「オペラ・セクストロニック」を披露した際にチェリストが上半身を完全に脱いで公演を行ったことがあった。パイクは、この作品で「大衆の品位を大っぴらに侮辱した芸術」という罪名ですぐに逮捕された。しかし、この事件は、芸術的検閲の限界をテストしたものとして、結局該当法条項を改訂させるきっかけとなった。現在、この作品は公演当時の写真と逮捕される様子の写真、そして1万個の単語で書かれた判事の判決文が残っている。
1967年、ハプニングアーティストのアラン・カプローの招きでニューヨーク州立大学の客員教授を務め、1976年、ベルリン芸術院主催で「月は最古のTV」を発表、1977年には世界初の衛生放送番組「ドクメンタ6」を制作した。衛生放送を利用した宇宙同時中継ショーは1984年の「グッドモーニング、ミスター・オーウェル」、1986年「バイバイキップリング(Bye Bye Kipling)」と続き、最高の科学技術を使った時空を越えた同時体験の可能性を劇的に見せ付けた。
このような大々的な最初の実験作は、1980年代に入り、大衆に広く知られるようになり、1982年、ニューヨークのホイットニー美術館で行われたナム・ジュン・パイク回顧展は成功裏に幕を閉じた。1988年にはソウルオリンピックを記念する大型ビデオインスタレーション作品「多多益善」を制作するまでとなった。1992年には、国立現代美術館で「ビデオ時ビデオ地」展を開き、1995年にはパフォーマンスロボットK-5を披露し衛生番組分野でも活発な作品活動を行った。
1996年、パイクは脳卒中で倒れ、左半身の神経が麻痺してしまった。しかし1997年、ドイツのビデオ彫刻展とバゼルアートフェア、1998年ソウル版画美術祭、2000年グッゲンハイム回顧展などを開催しながら芸術に対する情熱を見せ付けた。2006年1月、アメリカマンハッタンギャラリーコリアで開幕された「ムービングタイム展」に1960年~70年代の自分の作品3点を展示し、これが彼の最後の展示会となった。
彼は、一生の間で多くの賞を受賞した。1993年ベネチア・ビエンナーレで大賞の金獅子賞を受賞、1995年には、福岡アジア文化賞、1996年湖厳賞を受賞した。1997年、クリエイティブな成果を収めた非ドイツ人芸術家に与えられるゲーテメダルを受賞、1998年、現代芸術とビデオの融合に貢献した功労により、京都賞を受賞した。また、1999年アメリカマイアミ芸術家賞を受賞、2000年には大韓民国の文化芸術発展に貢献した功労により金冠文化勲章を受章した。
この他にも1996年ドイツの「フォーカス(Focus)」紙が選んだ今年の100大芸術家に選定、1997年ドイツの「カピタル(Capital)」紙が選んだ世界の作家100人に名を挙げた。
アクセス
水原IC横、新葛交差点で民俗村方面に徒歩10分
京畿道博物館横、新葛高校正門向かい側、水原IC横、新葛交差点で民俗村方面に徒歩で10分
住所: 京畿道 龍仁市 器興区 白南準路10
電話番号: 031) 201-8500
ホームページ: http://www.njpartcenter.kr/kr/
http://blog.ggtour.or.kr/archives/20715
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